【文章論】人はそれを「わたし」と呼ぶ - 一人称について


 ブログをはじめるにあたって、ふと一人称をどうしようかと考えた。
 一人称とは、自分のことを指す代名詞である。英語の一人称は「I」しかないけれど、日本語にはさまざまな種類がある。

日本語の一人称はさまざま

 一般的に使われるのは「わたし」である(漢字で「私」と書くと、「わたし」とも「わたくし」とも読めるので、ここではひらがな表記で統一する)。「わたし」は、男女ともに用いるが、男性の場合、フォーマルな場面では「わたし」、プライベートな場面では「僕」や「俺」、というふうに使い分けている人が多いと思う。なかには「自分」という人もいる。

  女性の場合は、いつでも「わたし」を使う人がほとんどだろう。「あたし」という崩した言い方もある。「うち」と言う人や、自分の名前をそのまま言う人もいるけれど、それほど多くはないはずだ。男性の一人称と比べれば、女性の一人称は種類が少ない。種類が少ないから使い分ける機会もあまりない。これまでの歴史で、使い分ける必要に迫られなかったから、つまり、長い間、社会に参加させてもらえなかったから、一人称の種類が増えなかったのかもしれない。

 もちろん、女性でも一人称を使い分けるときがある。例えば、お母さんとして自分の子どもに接するときは、「私はね」とはあまり言わない。「お母さんはね」と言う。

一人称は相手に合わせて変化する

 鈴木孝夫さんの『ことばと文化』(岩波新書)によれば、日本語における一人称は「対象依存型の自己規定」であるという。

 先ほどの例でいえば、自分のことを 「お母さん」と呼ぶのは、対象となる子どもの視点に合わせているから、ということになる。同じように、教師は生徒と話すとき、自分のことを「先生はね」と 言う。相手からみたら、自分は「お母さん」であり「先生」である。相手にとっての自分の立場・役割で、自分のことを指し示す。

 相手の視点に合わせるのは、目下に対してだけではない。例えば、「俺」という一人称は、乱暴な言い方だから、目上の人や客に対しては失礼だという社会通念がある。自分は礼を欠いているつもりはなくても、そう受け取られてしまう恐れがある。そういうルールになっている。ルールというのは、自分で決められない。変えることもできない。いつの間にか、社会がそういうルールを作ってしまっていて、それに従うことを強制されるのだ。英語には、一人称が「I」しかないから、相手によって使い分けるというルールがない。表向きの自分も、素の自分も「I」なのだ。

 文章を書く上で、一人称の選択に頭を悩ませるのは、相手が見えないからだと思う。どんな人が読むのかわからないからである。もっとも、それは男性に限ったことかもしれない。男性の方が一人称の種類が多く、使い分ける場面が多いからだ。女性なら、あまり選択に悩むことはないと思う。わたしは男性なので、非常に悩むのである。…と、つい「わたし」と書いてしまった。自分の話を持ち出すときは、どうしても一人称が必要になってくる。

わたしの場合

 もちろん、自分が書きやすいと感じる一人称を使えばよいのだろう。わたしの場合、会話では主に「僕」を使っているけれど、文章で「僕」というのは、なんだか気恥ずかしい思いがする。どんな人が読むのかわからないから、とりあえず襟を正しておこうという気持ちのあらわれなのかもしれない。書き慣れてきたら、「僕」になるかもしれない。

 親しい人とお酒を飲んだりして、気分がいいときは、ふいに「俺」が飛び出すことがある。わたしの中の「俺」は、ふだんは隠れているようだ。実は、「俺」がいちばん素の自分に近いのかもしれない。