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【文章論】どなたさまですか? - 読者について


 前々回は一人称、前回は文末詞を例に、日本語が相手によって変化するものだという話をした。今回もそのつづき。

誰が読むかわからない

  一人称も文末詞も、日本語は、相手によって変化する。相手のことを優先する。その意味では、思いやりのある言語だと思う。一方で日本語は、自分の立場で自分の主張をするのは苦手なのかもしれない。対等な立場で言葉を交わす、ということが難しい言語なのかもしれない。これが、文章を書くうえで問題になる。

  当たり前だけど、会話には、必ず相手がいる。相手がいれば、相手に合わせて言葉づかいを変えることができる。けれど、文章というものは、日記や手紙を別にすれば、相手の姿が見えない。「この文章を読んでくれる人」というものを、なんとなく想定したとしても、実際にどんな人が読むのかわからない。相手の立場を考えようとしても、みんなそれぞれ違うところに立っているから、すべての人の立場を考えることはできない。仮に、そんなことができたとしても、気持ちがみんなにそれぞれ散らばるから、それぞれに届く気持ちも小さいものになる。八方美人になる。そのような文章を読んでも、きっと、あまり心を動かされない。

 そこで、ある特定の人(たち)を思い浮かべて書く、というやり方が考えられる。書き手が伝えたいと思う内容を、伝えたい人に向けて書くのだ。これなら相手が見えるから、言葉づかいも決めやすい。また、相手が見えるから、相手が何を知っていて、何を知らないのかも思い浮かべやすいので、書く内容も決めやすい。

専門書の文章と入門書の文章

  例えば、専門書というものは「その分野について知っている人」に向けて書かれる。だから、細かいことは説明しない。そのぶん、伝えたいことをたっぷり書ける。深いところまで掘り下げられる。知っている人、わかってくれる人を相手にするから、専門用語や業界用語もどんどん飛び出す。すると、内輪にしか通じない言葉づかいになってゆく。わかる人だけがどんどんわかる人になって、わからない人は置いてきぼり。わからないことは恥ずかしいから、わかった気になっ て、なんとか追いつこうとしたりもする。内輪にしか通じない言葉づかいは、排他的な面があるのだ。
 
 一 方、入門書というのは、「その分野について何も知らないけれど興味がある人」を読み手として想定する。何も知らないのだから、噛み砕いて丁寧に解説しなければ伝わらない。もちろん、噛み砕く過程で、細かいところを省略することもあるから、おおまかにしか理解できない恐れもある。入門書によっては、書き手が 「この程度の説明で十分だろう」という気持ちで書いているものもあるかもしれない。けれど、心から「知ってほしい」「わかってほしい」と願うなら、文章を工夫するはずだ。言葉づかいが変わるはずなのだ。
 

「わたし」と「あなた」の間にある距離

 内田樹さんの『街場の文体論』(ミシマ社)によれば、「書く」という行為の本質は「読み手に対する敬意」に帰着し、実践的には「情理を尽くして語る」ことだと述べている。

  敬意というのは「読み手との間に遠い距離がある」という感覚から生まれます。自分がふだん友だちと話しているような、ふつうの口調では言葉が届かない。教師に対して失礼であるとかないとかいう以前に、そういう「身内の語法」では話が通じない。自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使い回すだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。自分がふだん使わない言葉づかいで語るようになる。
15-16頁 『街場の文体論』ミシマ社

 

  内田さんは、「届く言葉」と「届かない言葉」の違いとして、「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある、と述べている(同書 285頁)。これは、「届け、届け」と念を込めて書く、ということではない。ひたすらわかりやすく書く、ということでもない。書き手と読み手、つまり「わたし」と「あなた」の間には距離がある、と認識し、「どういう言葉づかいならば、この距離を埋めることができるだろう」と考えることなのだ。