丸山眞男『「である」ことと「する」こと』の疑問 その1

 
「である」ことと「する」こと

 最近、丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』(1958年初出)を読みなおしてみた。1958年初出でありながら、今でも頷く箇所が多い。それだけ普遍的な内容なのだろうと思う。以下の『日本の思想』に収録されている。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

 以下、要約してみよう。丸山の主張は、現代の日本は、近代以前の「『である』こと」の思想と、近代の「『する』こと」の思想がごちゃまぜになっているから正していくべきだ、というものである。

 近代以前の「『である』こと」の思想とはなにか。それは、身分・家柄・年齢といった「属性」を重視する論理や価値観のことである。江戸時代・徳川時代で言えば、武士は「武士である」というだけで、支配する理由になった。また、儒教思想の「長幼の序」のように、「年上である」「年下である」というだけで、どのように振る舞うべきかが決められていたのである。

 一方、近代は異なる。近代は「『する』こと」の論理で動き、「『する』こと」に価値があるとされる。丸山は、債権を例に出して説明する。債権者(お金を貸している人)は、取り立てを行わないと、時効によって債権を剥奪される。同様に、民主主義における「自由」や「権利」も、常に「自由である」「権利がある」という状態でいるのではなく、「自由」や「権利」を行使し続けることが前提とされているのだ、と丸山は述べる。

 以上を踏まえた上で、丸山は「『である』こと」の思想と「『する』こと」の思想が、現代の日本ではごちゃまぜになっている、と指摘する。例えば、本来なら政治は「『する』こと」が重視されるべきなのに、「『である』こと」が蔓延していたり、一方で「『する』こと」を重視しなくてもよいはずの休日が「レジャーをする」日と化している。つまり「『である』こと」と「『する』こと」が倒錯しているのだという。それを正しいていくべきだ、というのが丸山の主張である。

日本に限ったことなのか

 さて、「なぜ」ごちゃまぜになってしまっているのか。丸山はその理由を以下のように書いている。

…日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで滲透しながら、他方では強じんに「である」価値が根を張り、そのうえ、「する」原理を建て前とする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。
175頁


 これは確かにその通りなのだと思う。けれど、この「宿命的」な混乱というのは、本当に日本に限ったことなのだろうか。というのは、他の国も、かつては身分制度という「である」論理があったはずで、そしてそれは、やはり他の国においても「強靭に」「根を張っていた」のではなかろうか。であれば、どの国も「『である』こと」と「『する』こと」がごちゃまぜになっているはずで、日本特有の現象だとは言えないのではないか。


  確かに、次のような意見もあるだろう。「西洋における近代化と、日本における近代化は事情が異なる」と。つまり、西洋の近代化は、市民や民衆による運動によって始まったものであるのに対し、日本の場合は西洋の真似しただけで、自発的なものではない、という見方である。したがって、日本にはまだまだ「『である』こと」の論理や価値が残っているのに、「『する』こと」の思想を無理矢理に当てはめたから、ごちゃまぜになっているのだ、と考えることができる。


「『である』こと」と差別

 けれど、わたしは「ではなぜ、現在の西洋国家においても差別があるのだろう」と思ってしまう。なぜなら、差別というのは「『である』こと」の論理や価値によって起きるものだ、と考えているからだ。

  近代の理念、近代の根本的な考え方に、「自由」とか「平等」というものがある。生まれによって制約されてはいけない、「『である』こと」を理由にして制約されてはいけない、という考え方である。西洋国家が本当に近代化を成し遂げたというのなら、近代の理念もまた浸透しているはずである。なのに、「女である」とか「黒人である」とか「ユダヤ人である」とか「イスラム教徒である」という、「『である』こと」を理由にした差別が、今もなお残っているのは一体なぜだろう。

 むろん、以上の話の前提として、そもそも「近代」をどのように定義するのか、という厄介な問題があるのだけど、そのうえで意地悪な見方をすれば、近代の理念というのは「建て前」としてしか浸透していないのかもしれない。であるならば、「『である』こと」の論理や価値は、日本に限らずどの国においても、未だに深く根付いている。根付いているならば、混乱があるはずなのである。

 もちろん丸山は、西洋では「『である』こと」の論理や価値が無くなった、とは書いていない。書いていないけれど、少なくとも、「『である』こと」と「『する』こと」の混乱は、日本特有の現象ではないと思うのだが。

 次回につづく。