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丸山眞男『「である」ことと「する」こと』の疑問 その2


 前回は、丸山眞男のいう「『である』こと」と「『する』こと」の混乱は、日本に限ったことなのか、という疑問について述べた。今回はそのつづき。

 以下長文なので、先に要旨を述べておくと、「『である』こと」と「『する』こと」が混乱する原因の一つは、そもそも両者を分けるのが非常に難しいからではないか、という話である。
 

日本の思想 (岩波新書)

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「誰が言ったのか」と「何を言ったのか」

 「誰が言ったのか」と「何を言ったのか」。あなたなら、どちらを重視するだろうか。理性的に物事を判断しようと心がけているならば、「誰が言おうとも、発言の内容そのもので判断すべきだ」と思うだろう。あるいは「誰が言ったかで判断するのは権威主義だ」と思うかもしれない。

 「内容で判断すべきだ」と考える人は、「内容“だけで”良し悪しを“判断できる”」と思っている人でもある。けれど、実際問題として、「誰が言ったか」を切り離して「何を言ったか」という内容だけで、物事を判断できるものだろうか。「狼少年」の話を思い出してほしい。「狼が来たぞ」と言ったのは狼少年である。彼は「嘘つきである」。だから、彼が「何を言っても」信用されなかったのだ。

 「狼少年」の例は、分かりやすいだけに、ちょっと極端な話かもしれない。けれど、別の例でも同じようなことが起きる。例えば、専門家がAだと言い、素人がBだと言った場合、どちらの言葉を信用するだろうか。多くの人が、「専門家である」という理由で、Aを信用するのではなかろうか。

「何を言ったのか」で判断できるのは、知っている分野だけ

 もちろん、専門家だからといって100%正しいことを言うとは限らないのだけど、専門分野というものは、素人にはどうやっても確かめようがない場合がある。科学実験などはその最たるものだろう。そのため、「専門家が言うのだから、きっと正しいだろう」とみなしてしまう。

 逆に言えば、その分野に精通していれば、たとえ専門家が言おうとも「それは間違いだ」と指摘することができる。つまり、「何を言ったか」という「内容“だけで”」良し悪しを判断できる範囲は、自分の知っている分野に限られる、ということだ。知らない分野に関しては、どうしても「『である』こと」で判断してしまいがちになる。そして、普通、知っている分野の方が遥かに少なくて、知らない分野の方が圧倒的に多いものだ。こうした理由もまた、丸山のいう「『である』こと」と「『する』こと」が混乱する原因の一つではなかろうか。

 

「『である』こと」のハロー効果

 「『である』こと」で判断するには、専門知識は必要ない。判断材料となるのは、「『である』こと」によって受け取る「印象」である。例えば「ノーベル平和賞を受賞した人」は、「人格的も優れた人なのだろう」とつい思ってしまいがちだ。本来であれば、「ノーベル平和賞のを受賞した人」と「人格的も優れた人」は、「必ずしも」結びつかないのに、「ノーベル平和賞のを受賞した人」という特徴に引きづられてしまうのである。

 

 こうした「認知の歪み」を、心理学では「ハロー効果」と呼ぶ。「ハロー」とは、「後光が差す」とか、キリスト教絵画において聖人の頭に描かれる「光輪」のことである。よく言われる例として、商品やサービスを宣伝する広告塔に、好感度の高い芸能人を起用するのは、この「ハロー効果」を利用したものである。つまり、消費者に「好感度の高い芸能人が勧めているのだから、この商品・サービスも良いものだ」と思わせるのが狙いである。

 「そんな馬鹿な。消費者はそこまで単純じゃないよ」と思う人は、逆に、「嫌いな芸能人ランキング」の上位者が、商品やサービスを勧める場合を考えてみよう。無意識というのは、「意識されない」からこそ気づかない。ゆえに、認めることが難しいのだ。そして、「『である』こと」の論理や価値観は、こうした無意識に働きかけるのだと思う。

 

「『である』こと」と「『する』こと」の混乱を正すには?

 「『である』こと」と「『する』こと」を切り離して考えることは難しい。ゆえに、「『である』こと」と「『する』こと」が混乱する。ではどうすれば良いのか。

 丸山は、「深く内に蓄えられたものへの確信に支えられてこそ、文化の立場からする政治への発言と行動」(179頁)によって、混乱を正す道が開けると述べているのだが、わたしの頭では正直よく分からない。かなり乱暴に解釈すれば、「教養が大事」ということではないかと思う。

 今まで述べてきたことを踏まえれば、「『する』こと」で判断できるようにいろいろ勉強しよう、とか、「『である』こと」による印象に左右されないように気をつけよう、ということになる。そのためには、一人一人が「勉強すべきだ」「気をつけるべきだ」と意識する必要があるのだが、では、どうすれば一人一人の意識が変わるのか、という問題になる。

 手っ取り早いのは、オピニオン・リーダーによる「啓蒙」なのだけど、注意しなければならないのは、オピニオン・リーダーを求めるような「英雄待望論」には、常に危険性が伴うことである。その理由は、なぜヒトラーが誕生したのかを調べれば分かるだろう。「ノーベル平和賞」を受賞したからといって「人格的に優れている」とは限らないように、「オピニオン・リーダー」や「英雄」が、常に正しい道に導くとは限らない。ブレヒトの戯曲に登場する台詞のように、「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸」なのだ。

 

 結局、手っ取り早い方法なんてないのかもしれない。それだけ世の中や人間というのは単純にはできていないということでもある。複雑な事柄を一つ一つ解きほぐしていくような、地を這うような地道な作業しか、道は開けないのかもしれない。