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「仕事・労働」は「誰かのために何かをすること」?

 

 「仕事」とはなんだろう。あるいは「労働」とはなんだろう。
 これまでに多くの人が、「仕事・労働」についていろいろと考えてきたわけだが、今回は、先人の知恵を借りる前に、自分の頭でつらつらと考えてみたい。

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 とりあえず、「仕事・労働」を「誰かのために何かをすること」と定義しよう。というのも、自分の利益のためだけに行われる活動は「仕事・労働」とは言えるのだろうか、と思うからだ。


 自給自足で一人暮らしをしている人がいるとしよう。自分で畑を耕し、農作物を育て、収穫する。そうして手に入れた食糧を、誰にも分け与えず「自分だけ」の食糧とするなら、それは「仕事・労働」と呼べないのではないか。


 では、一人暮らしではなく、家族だったりルームメイトがいる場合はどうだろう。共同生活者がいると、とたんに「仕事・労働」と呼べるような気がしてくる。農作物を育てるのは、自分だけのためではなく、家族やルームメイトといった「誰かのためでもある」からだ。つまり「仕事・労働」とは、個人的な活動ではなく、社会的な活動なのだ。というわけで、「仕事・労働」とは「誰かのために何かをすること」だと定義してみたのである。

 

 誰かのために何かをする。それが相手に喜ばれれば、自分も嬉しいものだ。したがって、「仕事・労働」が喜びになるとしたら、それは、自分の心のなかから喜びが湧き上がってくるようなものではなく、他者からの承認が不可欠なのだと思う。「ありがとう」という言葉、あるいはとびっきりの笑顔など、感謝の応答があってはじめて、「仕事・労働」は喜びになり得るのではないか、と思う。

 

 では、達成感というものは「仕事・労働」の喜びではないのか?という疑問が出てくる。確かに、ひとつの「仕事・労働」をやり遂げたときに得られる達成感は、喜びであることに間違いない。けれど、達成感というものは、「仕事・労働」だけで得られるものではなくて、例えば、趣味においても得られるものだ。そして趣味は、基本的に自分のために行われる活動である。編み物を趣味とする人が、何日もかけてセーターを編み上げたとき、その瞬間に達成感を得たとしたなら、それは「セーターを完成させること」という自分だけの目的を達成したからである。では、セーターを編み上げる目的が、誰かにあげることだとしたらどうだろう。出来上がっただけでは、まだ達成感は得られないはずだ。誰かにあげたとき、ようやく達成感が得られるわけで、それはもはや趣味を超えて、「仕事・労働」に近いものになりつつあるのではないか、と私は思うのだ。

 

 「仕事・労働」は「誰かのために何かをすること」であり、ゆえに、他者からの承認が「仕事・労働」の喜びである。これはこれでひとつの結論なのだが、実は問題がある。
 相手が仏頂面だったら場合を考えてみよう。喜んでいるかわからない。もちろん「ありがとう」の言葉もない。相手が自分のしたことに対して、何の反応も示さない。すると、「喜んでもらえなかったのか」と悲しい気持ちになったり、「せっかくしてあげたのに」と相手に対して怒りや憎しみを感じてしまうのが人間というものである。

 

 つまり、「誰かのために何かをする」という意識は、「感謝されたい」とか「褒められたい」といった欲望と紙一重なのだ。「他人の喜びは自分の喜びだ」というのは、美徳のように聞こえるけれど、では、「他人が喜ぶのなら、それをするのは〈わたし〉でなくてもいい」と思えるだろうか。「〈わたし〉でなくてもいい」と分かったとき、自分の「仕事・労働」は、途端に無意味なものに思えてこないだろうか。感謝を求めるということは、「あなたがいま喜んでいるのは、ほかでもないこの〈わたし〉のおかげだよ。ほら、〈わたし〉が必要でしょ?」という心の問いかけに、「そのとおりだよ」と相手に言ってもらいたい、ということなのである。

 

 もちろん、自分の欲望を無理に否定することはないし、感情というものは否定しようとしてできるものでもない。「仕事・労働」は、決して楽なことではなくて、苦労や疲労を伴うものだから、「労(ねぎ)らってもらいたい」「感謝してもらいたい」という気持ちが湧き上がるのは、ごく自然なことだろう。じゃあ何が問題になのかといえば、「誰か」の感謝の応答を強く求めすぎると、自分自身が「仕事・労働」の主人になれなくなってしまうことなのだ。もちろん、やりたいからやっている、と言い切れるならよいのだけれど、誰もが自分のやりたい仕事につけるわけではないのが現実だ。感謝の言葉も求めず、「誰かのために」という意識さえなく、「仕事・労働」を通じて喜びを得るなんてことは、わたし(たち)に、果たして可能なのだろうか。

つづく