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「公共空間」と「人格的な承認」 - 今村仁司『近代の労働観』

 

 前回からの続き。今村仁司さんの『近代の労働観』によれば、労働の喜びとは「他者からの承認」であり、その欲望の本質は「虚栄心」だと考える。

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

 

 

 さて、「虚栄心」は無くせない。ではどうすればいいのか。今村さんは、承認の欲望の質を変えてしまおう、と述べる。

 

私的な承認と公的な承認

 まず今村さんは、他者からの承認を求める欲望を「空間」で分類する。「私的な承認空間」と「公共空間」である。

 「私的な承認空間」では、自分が他人からどう見られているか、あるいはどう見せたいか、ということばかり気にする。すなわち前回述べた「虚栄心」のことだ。では「公共空間」における承認の欲望とは何だろう。

 

公共空間で他人の承認を求めることは、もはや出世競争のような私的な虚栄心の満足を求めることではない。それは、対等の人格として相互に対面しあえるという期待である。(中略)私的承認欲望すなわち虚栄心では、他人は競争相手であり、打ち勝つべき敵である。公共空間での他人は対等の他者であり、友人である。
177頁

 

 今村さんの言う「公共空間」とは、自分と他人のどちらが上か下かの「地位」を競い合う空間ではなくて、自分と他人が対等に向き合い、付き合える空間なのである。対等であるには、お互いの「人格」を承認していなければならない。尊重していなければならない。

 というわけで、「私的」な承認の欲望とは「地位的な承認」であり、「公的」な承認の欲望とは「人格的な承認」ということになる。

 

地位的な承認と人格的な承認

 さて、「地位的な承認」というのは、自分と他人の格差を求めることだが、これは必ずしも道徳的に避難されるものではない。というのも、仕事ができる人ができない人よりも高い給料・報酬を求めるのは、当然というか正当な理由だからである。したがって、「地位的な承認」とは、「労働と成果に応じた承認」でもあるのだ。

 

 けれど、「地位的な承認」「労働と成果に応じた承認」だけで人は満足するだろうか、と今村さんは問う。がむしゃらに働いて出世競争を勝ち抜き、高い地位と年収を手に入れたとしても、ときに「虚しさ」を感じるのなら、それは結局のところ「人格的な承認」が満たされていないからである。つまり、「人格的な承認」が満たされなければ、「地位的な承認」も結果的に満たされることはないわけだ。

 ならば、「人格的な承認」が可能になるような「公共的な空間」を、“労働現場にこそ”作り上げる必要がある。そして、承認の欲望を「私的」なものから「公的」なものへ、「地位的」なものから「人格的」なものへ変えてゆかなければならない。

 

 つまり、承認の欲望は避けることができないし、「地位的な承認」ばかりを求めても満足しない。ならば、労働現場の構造を変えることで、「地位的な承認」の欲望から「人格的な承認」の欲望を変えてしまおう、最初に述べたように、欲望の質を変えてしまおう、というのが今村さんのアイデアなのである。

 

「強者」と「弱者」

 さて、今村さんのアイデアは興味深く読みつつも、わたしとしては、人間はそこまで合理的だろうか、という疑問がある。

 

 まず、どんな分野であれ、仕事ができる人とできない人に分けられてしまう。上司と部下、先輩と後輩といった「地位的」な上下関係を撤廃したとしても、力量の優劣によって「強者」と「弱者」が生まれてしまう。

 
仕事のできる人は、できない人の分までカバーしたりフォローすることだってあるだろう。「なんで俺がアイツの尻拭いをしなければならないんだ」という、「弱者」に対するネガティブな感情が芽生えても不思議ではない。

 医療や福祉なら、「弱者」の立場から物事を考えたり、仕組みを作ることができるかもしれないけれど、成果を求められる企業で、それがどこまで可能なのだろう。どうすれば「強者」と「弱者」が対等な人間関係を築くことができるだろう

 

価値観の違い

 また、職場でのコミュニケーションというのは、「仕事のやりとり」が中心だからこそ機能しているだけであって、同じ価値観の人たちが集まっている組織ではないのだから、気の合う・合わない人なんてたくさんいるのが当たり前である。良い仕事を目指して頑張る人もいれば、「生活費を稼ぐことだ」と割りきって、仕事はそこそこの人もいる。

 プライベートな付き合いなら、「あなたはそういう考えなのか」で済かもしれないけれど、職場において、自分と正反対の価値観を持つ人を受け入れ、認め合うことができるだろうか。わたしとしては、「人格的な承認」には、価値観の共有が欠かせないのではないか、と考えてしまう。

 さらに言えば、価値観の共有によって「人格的な承認」が可能になっていれば、先ほど述べた、「弱者」に対するネガティブな感情も、多少は緩和されるかもしれない、とさえ思っている。簡単にいえば、仲が良い人なら手助けすることも嫌ではなくなるのではないか、ということだ。もちろん、いつまでも助けっぱなしだと、いつかはうんざりしてしまうだろうけれど。

 

 かと言って、同じ価値観を強いるような「同調圧力」は避けなければならない。同じ価値観を強いるということは、排他的な集団になってしまうわけで、それは決して「公共」とは呼べないからだ。多様な価値観を維持するにはどうすればよいのか、それが「公共性」の課題なのだろう。