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「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」

 まずはおさらい。
 今村仁司さんの『近代の労働観』(岩波新書)によれば、労働の喜びは他者からの承認であり、承認を求める欲望は、「虚栄心」である、と定義する。

 「虚栄心」では結果的に人は満足できないから、欲望の質を「虚栄心」から「人格的な承認」へと変えていこう、そしてそのような承認が行われる「公共的な空間」を職場に作ろう、という議論になっている。

 前回は「公共的な空間」「公共性」について、以下二点の課題があると考えた。

  1. どうすれば「強者」と「弱者」が対等な人間関係を築くことができるだろう。
  2. どうすれば多用な価値観を受け入れ、認め合うことができるだろう。


 前々回では、承認を求める欲望を「虚栄心」として捉えてしまうと、こぼれ落ちてしまうものがあるのではないか、という疑問を述べた。たとえば、上司や業界の権威者に褒められる・認められることと、客に感謝されることとは、質が違うのではないか、ということだ。

 

感謝と承認

 さて、「客に感謝されること」というのは、はたして「人格的な承認」だろうか?
客はあくまで、商品説明なり、ラッピングなりという「サービス」に感謝している。あるいはその「サービス」を行う「労働者としての<わたし>」に感謝している。決して、「<わたし>そのもの」の人格を肯定しているわけではない。けれど、そうであっても、客から「どうもありがとう」などと言ってもらえれば、従業員は嬉しいものである。

 これは「接客」の場面に限ったことではない。たとえば業務の代行である。上司や同僚が忙しさのあまり、手つかずのままになっている業務だとか、あるいは突然体調を崩して休んだりしたときに、代わりに業務を行ったとしよう。そのとき「ありがとう」「助かった」などと言われれば、多少は苦労が報われるというものだ。

 

業務の代行

 ところで、代行には二つのケースが考えられる。
 一つは、直接相手から代行をお願いされた場合であり、もうひとつは、自発的に行った場合である。

 

 直接相手から代行をお願いされたのであれば、その「ありがとう」「助かった」は、代わりにやってくれたという「行為」に対する感謝、あるいは「労働者としての<わたし>」に対する感謝だろう。


 では、指示・命令されたわけでもないのに、自発的に代行した場合はどうだろう。もちろん、自発的な代行にも、困っている同僚を助けてあげたいという優しい気持ちによるものもあれば、上司の好感度をあげるための打算的なものもある。


 いずれにせよ、それが、決してお節介ではなく、本当に当人を助けた場合、その「ありがとう」「助かった」は、「労働者としての<わたし>」を超えて、「<わたし>そのもの」に対する感謝になるのではなかろうか。

 

「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」

 逆に、感謝の言葉がなければ、ただの骨折り損のくたびれ儲けである。
 「骨折り損のくたびれ儲けなんかじゃない。その人が助かればそれでいい。感謝の言葉なんていらない」と思えるような人は、いるとしてもごくごく僅かだろう。


 多くの人は、以前に述べたように、感謝を求めるとき 「〈わたし〉のおかげだよ」という気持ちがつきまとう。それはつまり、「従業員としての<わたし>」であれ「<わたし>そのもの」であれ、とにかく「人格的な承認」を望んでいるのだ。

 

「やって当たり前」「出来て当たり前」

 ところで、「労働者としての<わたし>」が承認されることは、実はけっこう難しいことだ。なぜなら、職場内から「これはあなたの仕事です」と指示される業務は、研修中ならまだしも、数ヶ月のすれば「やって当たり前」「出来て当たり前」だと思われるからだ。


 もちろん客だって、要望に応えてくれて「当たり前」だと思っている。
 「当たり前」のことには、なかなか感謝の言葉はかけてもらえないものである。


 仮に、自分の仕事ぶりによって会社の売上に貢献したとなれば、社内で表彰されるかもしれない。けれど、たとえば、事務や経理の仕事はどうだろうか。ミスしたときは咎められるけれど、それ以外の場面では、特別褒められることもなく「やって当たり前」「出来て当たり前」のままになってしまう。


 ちなみにわたしの仕事は、広告映像の制作なのだが、この仕事だって「やって当たり前」「出来て当たり前」だと、職場からもクライアントからも思われているのである。きっとどんな業界であってもそうなのだ。失敗したときだけ目立ち、成功は目立たないのである。

 かといって、規則で「お互いを褒めあいましょう、感謝し合いましょう」などと取り決めたとしても、まったく無意味である。義務的な、あるいは儀礼的な「よくできたね」「ありがとう」なんて、ちっとも嬉しくないからだ。もっとも、そんな儀礼的な賞賛・感謝でさえ行われない職場のほうが多いのだろうけれど。

 

「<わたし>にしかできないこと」は滅多にない

 「やって当たり前」「出来て当たり前」と思われてしまうということは、つまり、わたしたちの業務のほとんどは、「<わたし>にしかできないこと」ではない、ということでもある。他の人でもできることなのである。

 

 もちろん、人によって向き不向きはある。得意不得意もある。なかには「この人のこのスキルがないと実現が難しい」という場合もあるだろう。また、いま現在の職場では「<わたし>以外にできる人がいない」ということだってあり得る。けれど、突然新人がメキメキと力をつけるかもしれない。優れた中途者が入社するかもしれない。一歩職場の外に出れば、自分よりよっぽど腕のいい人がゴロゴロいるものだ。

 

 要するに、「<わたし>にしかできない」ようなスペシャリストに、誰もがなれるわけではないのだ。そもそもスペシャリストだって、 始めは「誰にでもできる」ような基礎的な作業からキャリアを積むのである。したがって、「仕事・労働」に、「<わたし>にしかできないこと」を求めるには、文字通り「他のひとにはできない」スキルを身につけなければならないわけだ。天才でもない限り、血の滲むような努力が必要だろうし、そんな努力を惜しまずストイックな姿勢を貫き通せるのなら、それはもう、ひとつの才能である。となると問題は、ほとんどの「普通の人」はどうすればよいのか、ということになる。

 

「<わたし>そのもの」の承認

 「労働者としての<わたし>」の承認が困難なのであれば、もうひとつの「<わたし>そのもの」の承認に賭けるしかない。自発的な代行の例を繰り返せば、もし相手が心から「ありがとう」「助かった」と感謝してくれるならば、それは「<わたし>そのもの」の承認になるのではなかろうか。それは、決してお節介ではなく、本当に「誰かを助けた」とき、もっと広く考えれば「誰かの役に立った」ときであろう。


 では、「誰かの役に立つ」とはどういうことなのか。そして、その「誰か」とは一体「誰」なのか。