仕事に生きがいを求めること、ありのままの自分で働くこと

前回のおさらい。

承認の欲望は大きく二つに分けられる。「地位的な欲望」と「人格的な欲望」である。そして、「人格的な承認」はさらに二つに分けられる。「労働者としての<わたし>」に対する承認と、「<わたし>そのもの」に対する承認である。仕事・労働を通じて、感謝されたり評価されたりするのは、「労働者としての<わたし>」に対してであって「<わたし>そのもの」に対してではない。

前回は、「労働者としての<わたし>」に対する承認は案外難しい、という話を述べた。というのは、仕事は基本的に「出来て当たり前」だと思われているからだ。かといって、「<わたし>そのもの」に対する承認も、家族や友人、恋人との間ならまだしも、仕事・労働を通じた人間関係では困難だ。

 

かつては「仕事」と「生きること」が重なっていた

そもそも、人格的な承認の対象が、「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」とに分離していることが、問題をややこしくしているのかもしれない。

おそらく、旧石器時代のような未開社会では「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」は分離していなかったと思われる。狩猟や農業は、殊更に「仕事」と意識するようなものではなく「生きること」とぴったり重なっていたのだろう。それが、文明の発達に伴って「仕事」と「生きること」が分離してしまった。「労働者としての<わたし>」と「労働者ではない<わたし>」=「<わたし>そのもの」に分離してしまったのだ。

仕事に生きがいを求めること、ありのままの自分で働くこと

ということは、仕事にやりがいや生きがいを求める人というのは、分離された「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」を再び結びつけようとしたいるのかもしれない。働くことと生きることを、できるだけ重ねようとしているのかもしれない。

笑いたくもないのに営業スマイルを強いられるような「労働者としての<わたし>」ではなく、「<わたし>そのもの」のまま、ありのままの自分で働く。その働きの評価されれば、それは自分自身の価値の評価に直結する。そのときはじめて、仕事に生きがいを感じるのかもしれない。

仕事における地位的な承認を強く求める人も、「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」を重ねているのだろう。仕事での評価、つまり地位がそのまま自分自身の存在価値に繋がっているのだから。

 

職業の選択と自分の資質

家業を継ぐことが当然だった時代ならまだしも、職業が自由に選択できる時代になると、「労働者としての<わたし>」と「<わたし>そのもの」の分離がますます広がる。裁量の余地が大きくなると、あれこれ考えるようになる。「個性が大事」などと教育されれば、自分にふさわしい仕事、自分が得意な仕事、自分が楽しいと感じる仕事は何だろう、と考え始める。そして探し求める。

自分の資質というのは、実際に仕事をしてみないと分からない。「意外と事務的な細かい作業が得意だった」とか、「意外と接客や営業が向いていた」というように、仕事を通じて自分を知ることは実に多い。

けれど、そういう自分の意外な資質に気付く前に、向いていないと思って辞めてしまうことがある。それは、資質というものを「元々自分に備わっているオリジナルなもの」と理解しているからだろう。資質なんてものは、仕事を通じて磨かれ、変化していくものだ。「苦手なこと」を克服すれば、それは「得意なこと」「向いていること」になり得るのに、その可能性を自ら閉じてしまう。「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」である。もっとも、苦手なことを続けるのは辛いことだから、克服する前に心が折れてしまいがちなのだけれど。

好きなことでも仮面を被らなければならない

また、自分が楽しい作業でも、それが業務となるとストレスになることもある。たとえばデザイナーは、自分の好きなように自由にデザインできるわけではない。クライアントの要望に沿ってデザインしなければならない。自分の好みとはまったく正反対のデザインを作らなければならない。拘りがあればあるほどストレスになるだろう。好きなことを仕事にしても、「労働者としての<わたし>」として割り切らなければならない場面に出くわすのは免れないのだ。

「労働者としての<わたし>」の仮面を被るのは必要最低限にとどめたい。これは誰もが願うことだろう。けれど、この願いが強まると、「<わたし>そのもの」のままで仕事をしたい、という願いに変わってしまう。「いまの仕事はとりあえずの腰掛け。いつかは、ありのままの自分で働けるような職業に就きたい」と考えてしまうと、いわゆる「自分探し」になってしまう。

 

効率化による「やりがい」の搾取

速水健朗さんの『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)によれば、業務の多くがマニュアル化、IT化された結果、「やりがい」が搾取されているという。企業からすれば、熟練労働者を育てるには時間もコストもかかるけれど、マニュアル通りに働ける人材であれば、誰でもできるので、即戦力になるし補充もきく。しかも、熟練を必要としないから、昇進や時給を上げる必要もない。

また、分業による業務の効率化も「やりがい」を奪っている要因の一つだろう。分業では、他者との関わりも限定的なものになる。料理人は、自分の作った料理を自分で差し出し、客から直接面と向かって「美味しかったです」と言われれば嬉しいだろう。けれど、料理人を運ぶ人はウェイター・ウェイトレスの仕事だ。料理人はひたすら注文を捌くだけになる。自分の作った料理は誰が食べているのか分からない。顔が見えない。承認の喜びはどこにもない。

 

社会を変える?自分を変える?

労働をめぐる様々な困難さは、現在の社会の仕組みによるものが大きい。となると、解決するには、社会を変えるしかないのだろうか。当然それは一朝一夕にできることではない。ならば、社会に合わせて自分を変えるしかないのだろうか。

とは言っても、現状の社会に無理矢理自分を適応させるのでは、「やりがい」を奪う仕組みの延命に手を貸すだけだ。では、どう変わればいいのだろう。仕事を自分もまた社会の一員なのだから、自分が「良い方向」へ変わることで、社会もまた少しずつ「良い方向」へ変わるかもしれない。しかし、「良い方向」とは何なのだろう。